※このページは平成七年当時の深津学区明るいまちづくり深津学区委員会、深津探訪編集委員会による「ふかつ探訪」をもとに編集しています。

港町公園にある蛙岩

■ 深津嶋山

深津の丘が歴史に登場してくるのは、古く神話にはじまり「その昔、スサノオノミコトが大ジャ退治をされたところ、備後の福山湾にも一匹の大ジャが住み、大きなカエルを呑もうとし、大ガエルは恐ろしさの一念で岩となり、大ジャも呑むことができず、気を落として死し、その頭は王子山にあり、尾は市村山のすそのにありし」と、江戸時代の郷土史本に俚諺(りげん)として載せている。

■ 宝龍山の由来

古来、竜を呼びて竜神と称し、仏法守護の八部衆の一つとして、よく雲を起こし、雨を呼び、竜星に向かいて天を駆けると云う。
福山駅の東方に位置する所に、深津の町並を眼下に見下ろす小高い山がある。その昔この山には竜が住み、天地自然を駆けめぐり、万物を支配し、民達の願いをことごとく聞き入れた。民達はその竜を「お宝の竜神さま」と崇め、宝竜と呼び、竜の住むその山を宝竜山と名付けた。

宝龍山の地形
と謂われる深津高

翠松館の碑

■ 翠松館(すいしょうかん)

明治維新後、深津戸長(村長)石井英太郎ほかの手によって長尾寺を借用して、四書五経を中心とする漢字が近隣の住民の家の子どもに教えられていた。これが明治3年の「翠松館(すいしょうかん)」創立となり、翌年の窪田次郎提唱の啓蒙所の最初のものになる「深津啓蒙所」開設、明治6年には深津啓蒙所を廃し深津小学校設置となる。深津小学校は福山市内の小学校では最も歴史の古い学校の一つである。

■ 浜と内田

浜は古く深津島山だったころの海岸で、このさきに開ける稲田は海底であったものを正保四年(1647年)、時の領主水野勝成公が深津新田として土地造成を行って海は美しい水田となった。この浜の内田に深津小学校も移転し、かつて私たちの遠い祖先が半農半漁をしてえいえいと生きぬいてきた内田の水田は時の流れとともに村の中心となっていった。浜について語る時、代々深津の庄屋をつとめられた石井氏のことを忘れることはできない。(石井邸:JA深津支所のあたり)

当時の石井邸の門前

東荒神社
祭神、火之迦具土神、宇賀之神
大戸比売神

■ 米座と宮の端

「米座(こめざ)」は深津の一部で米の市が立ったようで、米や穀類などの市が開かれたことから米の座する市・所として米座の地名が、また一説には毛利元就の7男、毛利元康が、王子山の山城築城に際して、八幡堂にあった八幡神社を現在の宮の端に移築してその跡地に米蔵を設置したことから米座という伝えもあります。

八幡神社
祭神、神功皇后、広伸天皇
三女神

深津の人々は今から2000年以上も前、原八軒という厳山のすそ野あたりに住んでいた人々からやがて米座や西、浜、丁分などへ広がって移り住んだものと考えられている。
宮の端は、前出の八幡神社があり、深津高地の東の端にあたり、宮端という地名がついたものと伝えられている。

■ 辻の坂と金毘羅宮

深津と言えば、「ああ、あの辻の坂の向こうか」と今日でも坂を越す言葉が語られている。その昔は高い急な坂で、福山城の東の要害である。明治初期に深津小学校校舎の建築資材を運搬するのに、坂を越せないので松原から下井手川を利用して水路運搬したといわれるほど、辻の坂は交通の難所だったようである。
 この難所辻の坂の状態を見るにしのびないと思った村田虎吉は大正2年、両備鉄道(今の福塩線)が通じることになった時、この坂を掘ってその土を福山城の壕を埋めればよいと考え、当時の村長と両備鉄道の社長の賛成を得て自ら工事監督として着工し、1年1か月余りで竣工。険路は一転して平路の大通りとなった。現在坂の西降口に村田虎吉氏の徳を末永くしのび感謝するための記念碑が建てられている。

辻の坂

辻の坂記念碑

坂を少し降り、南に沿った細い坂道から金毘羅宮に行ってみよう。南に遠く四国の連山がかすみ、東に今や福山市の副都心として発展する深津平野、西に福山市の中心街を一望のもとにするこの地の金毘羅宮の常夜灯は、かつて平野が海であった頃の海路の安全を祈った標灯ではなかろうか。

金毘羅宮

真言宗 長尾寺

真言宗 光明院

■ 長尾寺と光明院

古文書と寺の縁起によると山号を宝龍山、院号を普賢院、寺号を長尾寺という。。古く大同年間(806年~810年)の平安期で眞言宗祖弘法大師ご巡錫の砌ご開創と伝えられる。
文学の興隆につれ諸種の風流な行事がこの寺を中心に持たれ観月会には菅茶山、頼山陽などの学者他、歌人、詩人、文人の往来があり地域の文化センター的な役割を担っていたようだ。

光明院の縁起についてはつまびらかではありませんが、室町時代、深津村字市場に無量寺という庵寺があり、それが起源といわれています。時代は翌正保5年2月より慶安元年(1648年)と改称されます。
 勝成公は深津村の塩崎明神社へ社領として田地3反歩を寄進し、ついで深津村字市場の無量寺庵を再興して「遍照山光明院」と改称し、塩崎神社の別当寺としました。 これが現在の光明院の始まりといわれています。
※一部参考:光明院HP(http://ww35.tiki.ne.jp/~komyoin/index.htm

■ 三枚橋

松原通りを過ぎると、福山城の外堀であったといわれる溜池があり、水辺公園がある。公園の北側に三枚橋がかかり、西側に大きな「三枚橋の碑」が立っている。江戸初期1630年ごろまでは遠干潟の海で、西浜といっていた。東深津、手城あたりが干拓によって開けてきた1640~1670年代ごろから、東西の交通要路として三枚橋(三昧ともいう=心を一時に集中して他念のないこと)が増してきた。

明治のおわりごろまでは丸太の上に土を盛った簡易な橋であったため木の間から土が落ちたり、朽ちるごとに改修していたが、これをみかねた三和士(たたき)の仕事をしていた入舟の「吉っあん佐藤吉助」が私財を投じて独力で現在の橋をかけた。橋脚を2つおき、すべて石材で完成させたもので、地盤の弱いところに数十年経過しても、バス・トラックが往来してなお堅牢な橋を作ったのだから、その見事さには敬服する。
水辺公園の改修が進み、川幅は半分以下となった。石碑も昭和47年に現在地へかわり、向きも前とは正反対になった。この橋も昭和の大改修工事が完成、この碑が遠き昔を懐慕している。

三枚橋の碑

水辺公園

大蛇の頭といわれる王子山

王子神社

本殿

■ 蛇頭山(王子山)

深津嶋山(深津高地)の最南端にある蛇頭山(王子山)。
石段を上がり石鳥居をくぐってだんだら坂をしばらく登るとやがて山頂につく。山頂は5・60米四方の平地になっており、王子大権現社・文珠堂と大小の社殿が並んでいる。社殿を過ぎると深津平野を一望できる。
社殿の王子大権現社は崇徳天皇がこの地へ行幸になられた時、この地の近くで、おかくれになられた王子を祀ってあるとか伝えられている。古くは蛇頭山も、王子山という地名もこうしたことから名付けたものではないだろうか。
文珠堂は、文珠大菩薩を祀るという。社殿のいならぶこの地は、古い山城の跡でもある永禄年間(1558~1570年)毛利元就の七男元康が築城したが、領土がけずられたため退去している。文珠堂の文珠堂という額字は、毛利元就の書の写しと伝えられている。
境内を少し南に廻ると、芭蕉がこの近くの地にしばらく脚をとどめていたので、芭蕉翁の徳を慕い、元禄七年(1758年)俳士流光(流光の本名藤村甚右衛門)が記念碑を建ててその徳をしたったものだと伝えられている。
 みちのしり(京都より西)深津嶋山と万葉の古歌に歌われた。深津嶋山はこの地王子山を歌ったものであると記した古文書もある。

■ 芭蕉句碑と風羅堂

貞門の七俳仙の随一といわれる野々口立圃がその晩年をこの地ですごした。彼は慶安四年(1652年)より寛文元年(1661年)まで11年間在住し、福山の俳諧を盛り上げた。続いて芭蕉の弟子志太野坡(しだやば)が享保年間に来福している。これ以降芭蕉崇拝は一段と燃え上がり、こうした風潮のなかで「風羅堂」という同人社がつくられ、野坡は芭蕉を第一世、自分を第二世した。後八世まで続き昭和初期にまで及んでる。

芭蕉句碑

薬師寺

■ 薬師寺

真言宗王子山福正院薬師寺(備陽六郡志)。文禄の頃、西入法師海中より光る薬師の尊像を拾う、奇端あり、毛利元康一宇を建立。寛文年中建立をして寺となす。
鐘銘・・・一打鐘声、当顧衆生、脱三界苦、得見菩提、西備名区には勝成と庵主の碁の縁を伝えている。

■ 灘の地蔵菩薩と丁分

先述の蛇山が深津島山として萬葉集に歌われし頃、深津の沖積地域はもと海湾で灘沿いが多かった頃沖を行く船の無事航行と旅人の災難を除く地蔵菩薩が祀られていた。
平成四年に修復され「灘のお地蔵さん」として近郊に名を響かせ、この地方に残る大切な民族文化財としてこの地域の方々のご協力もいただきながら、後世まで保護、保存したいものである。

修復を終えた「灘の地蔵さん」

塩崎神社

■ 千間土手と塩崎神社

寛永18年座床から深津村王子端まで築堤し、正保に入ると、木之端王子端から引野村の梶島山に向かって千間堤を築き、深津、市村、引野の各新涯、および深津沼田百七町歩、市村沼田九十四町歩、引野沼田百十八町歩が開発されることになる。この築堤工事はかなり困難を極めしばしば波浪により決壊していた。正保元年、隠居の水野勝成が深津村の汐崎に見聞に行ったとき、深津の庄屋藤井庄五郎が当時小字才ノ尾にあった小社潮崎大明神に「ご祈願されては」と進言、祈願を込めるとたちまち土手がかたまったことから、ここに新社殿を建て神田五反を寄進したということが伝わっている。

■ 深津の大名行列

徳川250年の長い間「下にぃ下にぃ」と備後街道を歩いたその権勢のかけ声には、民主日本の現在からみれば日本歴史の稚い夢が感じられます。垂れ穂の稲の長閑な村祭りに併せ、深津の文化遺産の大名行列は、一時中断もあったが、後世に伝承すべく有志により保存会が設立され10月の秋祭りに併せて行列を披露する中で郷土深津の歴史を深め先人の残した遺産を守り続けています。

大名行列

河相周兵衛像と義倉田碑

■ 郷土の誇り義倉財団

今から二百余年前、石井家の庭に面した病室で武右衛門は病みつかれた体を布団の上に起こして、客の千田村の河相周兵衛さんの前に白い布の包みを置きました。「この中に銀60貫目が入っています。鍬一筋の百姓で誠に僅かな財ですが、これを数十年利殖してかなりの金高に達した時その利子を慈善事業につかうことができましたなら、私の小さな志しも永遠なものになりはしないでしょうか」と周兵衛さんに託しました。それから周兵衛さんは有志と図って、ついに故人の希望を実現しました。義倉設立後も何度か福山藩の窮地を救い、これが今日育英補助の事業をなし、地方文化の開発に偉大な貢献をしている義倉財団創立の由来です。

■ 深津高地

多くの歴史を秘めた深津嶋山(深津高地)も時代は移り流れて、明治41年7月20日、歩兵第41連隊が福山に転営されるとすぐ、陸軍の演習用地が設置され、陣地も構築されました。交戦の壕が四方に延びていた(現在の暁の星学院)一帯です。
昭和14年、ノモンハン事件が勃発、第二次世界大戦が始まりました。軍部は深津高地の地形がノモンハンの地形によく似ているという理由で、演習用地を東北部へ大拡張しました。田5万坪、畑7万坪の合計12万坪(約39.6ha)を福山市が買収して軍へ提供したのです。
昭和20年、深津高地の軍用地では次から次へと横穴式壕が掘り進められ、本土決戦に備えていました。
終戦により、陸軍用地は一部は地主に返還され、一部は住宅用地、学校用地となりました。時は流れて、都市の発展に伴い、現在では殆どが住宅地となりました。

ありし日の深津高地

戦後の深津

蔵王山より望む深津高地